マレーシアの歴史

先史

 紀元前5000年から前3000年の間に、オーストロネシア語族が台湾、フィリピン、インドネシア、マレー半島と南下して、海域東南アジア(東南アジア本土と対となる概念:ブルネイ・インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・東ティモールといった国々で構成される地域)において、オーストロネシア語化が進行した。
 1世紀頃から、航海術が発達し、アジアの海上交易も盛んになっていった。
 マレーシアは、古くからそういった海洋交易の主要ルートであったといわれている。

古代

 その後、4,5世紀頃になると、東南アジアのインド化が進展してきた。7世紀に入ると、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡、いわゆるマラッカ海峡経由ルートがアジアの海上交易の主要ルートとなり、670年には、スマトラ南部(インドネシア)にシュリーヴィジャヤ王国(7世紀~13世紀)が成立した。
 シャリーヴィジャヤ王国は、インドネシアやマレー半島、フィリピン等に大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家である。7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家を従える交易帝国で、この海上帝国はスマトラからマレーにまたがる連合国家となり、中国やインドともさかんに通商を行っていたとされる。

中世

 13世紀にはいると、アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、同時に仏教とヒンドゥー教の時代が終わったとされる。1402年には、マラッカ王国(1402年~1511年:マレー半島南部に栄えたマレー系イスラム港市国家)が成立、1,408年には当時の明が、マラッカ王国の独立を承認した。
 交易において重要な位置に立地していたため、特に香料貿易の中継港としてインド、中東からイスラム布教の拠点にもなった。1414年に、イスラム教を国教と定めて、繁栄の時代に入ったとされる。
 マラッカ王国は、中国の明王朝の忠実な朝貢国であり、同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があったとされる。

近世

 15世紀にはいると、日本との交易が始まり、日本からは銀、刀、漆器、屏風、東南アジアからは、象牙、スズ、砂糖、鉄を取引していたという。琉球王国に関しては、東南アジアの王国との間で、1424年から1630年の間に、150回もの取引があったという記録があるという。
 その後重大な事件が起こる。1511年、ポルトガルによるマラッカ占領である。これにより1402年に成立したマラッカ王国は滅亡した。1549年(以後よく広まるキリスト教で覚えた年号)には、そのマラッカからイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本に来てキリスト教を広めたことを考えると、この時代にマレーシアにもキリスト教が布教されたのだろう。
 マレーシアはここに、イスラム、ヒンドゥー、仏教、キリスト教という多神教の源が形成されたと考えられる。
 ちなみにマラッカにあるポルトガル村では、ポルトガル風のシーフードが評判とのこと。またチキンポンテ(鶏と野菜の煮込み料理)などのポルトガル風のマレー料理が食べられるそうです。
 その後1641年には、今度はオランダがマラッカを占領した。マラッカは現在ではユネスコの世界遺産に登録されている古都であり、町のシンボルでもあるオランダ広場は、町の中心部にあり観光の拠点となっています。オランダ広場の建物は当初は全て真っ白だったようで、現在のピンクになったのは、1911年イギリス植民地時代だということです。
 1777年に隣国のシャム(現在のタイ)のソンクラ―国主に華僑の呉譲という者が就任した。呉譲はその後、現在のマレーシアの一部であるクダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始めた。1786年、シャムの攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社に自分の統治下のペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。1791年にシャムが隣国のパタニ王国(現在のタイの一部)まで攻め込んで来たため、イギリスに派兵を要求したが断られた。クダ・スルタン国は、イギリス(特にこの辺りの統括を任されていたフランシス・ライトというイギリス貿易商)に5年間騙されていたことがわかり、ペナン島奪還計画をしたが、事前にこのライトにその動きを察知され、ペナン島を取り返すどころか、対岸の拠点であるセベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡すことになった。

近代

 近大はまさに、イギリスによる植民地統治時代である。1791年ペナンを手に入れたイギリスは、1795年にマラッカを占領した。1819年には、シンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
 ペナンを奪われたクダ・スルタン国は、結局1821年にシャムに制服され統治された。
 1824年には、イギリス・オランダ両国にて、マレー半島(マラッカ海峡)を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結。イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島を植民地化することになった。
 1840年、ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊がシンガポールからアヘン戦争へ出撃。
 ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力、翌年サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立すると1842年、そのブルックがサラワク王国の国主となった。マレーシアはマレー半島とボルネオ島の一部で成り立っているが、そのボルネオ島にあるマレーシア領がサラワク州である。熱帯雨林が発達し、サイやゾウ、オランウータン、テナガザル、ワニなどの爬虫類が生息し、ウツボカズラの種類が多いことでも有名である。サラワクに行くなら狂犬病の注射はするほうが良いと聞いたことがあったが、マレー半島の方でもやはり狂犬病は打っておいた方が良いようではある。
 1874年には、マレー半島に存在した海峡植民地とその他の地域からなるイギリス支配下の連邦がイギリス領マラヤとして成立した。
 1909年、英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤに組み込まれた。

戦争とマラヤ危機

 1941年、日本軍がコタバル近郊に上陸(マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
 1942年、日本軍がマラヤ及び北ボルネオ(イギリス領ボルネオ)の全域を占領。クダ王国はシャムの占領下になったが、その他地域は日本軍の軍政下に入った。
 1945年、太平洋戦争の終結に伴い、マラヤ・北ボルネオはイギリスの支配下に戻った。
 1946年、クダ・シンガポール以外のイギリスが有する植民地の集合体としてマラヤ連合が発足。
 1948年、マラヤ連合の再編とクダ王国の加入によって、マラヤ連邦が発足。しかし連邦発足直後から、マラヤ共産党のマレー民族解放軍とイギリス軍や英連邦分とのゲリラ戦闘であるマラヤ危機が勃発、1960年にマラヤ政府が非常事態終了宣言を出すまで続いたとされる。
 1957年、マラヤ連邦が独立した。

マレーシアの成立

 1962年から1966年はインドネシアとマレーシアの対立が続いた。もともとインドネシアとマレーシアは言語的には方言程度の違いで、話が通じ合うらしい。たとえば、ありがとうはどちらの言葉でも「テリマカシー」だ。いずれの国もバドミントンが盛んで世界的に強い選手も多いので、私のように親子でバドミントンをやっていた家庭には割と親近感のある国々ではある。
 その対立のさ中、1963年には、シンガポール、東マレーシアのサバ(北ボルネオ)、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシア連邦が成立した。1965年にはシンガポールがマレーシアから追放される形で分離独立、現在のマレーシアとなった。
 1968年から1989年までは、共産主義者の反乱があり、1969年にはマレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突「5月13日事件」が起きた。今は他民族、多宗教がお互いを尊重しあって、助け合って共存しているマレーシアでも、このように民族衝突があったのは興味深い。きっと、この衝突からお互いの距離感を学んだのだろう。またこの年、初めての総選挙も実施されて、初代首相にラーマン首相が選ばれている。
 1974年には、クアラルンプールが連邦の首都と定められた。ちなみにクアラルンプールとは、マレー語で「泥が合流する場所」という意味があるらしい。市の中心部にある代表的なモスク「ジャメ・モスク」の付近で、ゴンバック川とクラン川が合流していることが基になっているということらしい。
 1981年ついにあのマハティールが第4代首相となった。学生時代に読んだ、「アジア復権の希望 マハティール」のあのマハティールだ。内容はあまり覚えていないが、ルックイーストで日本に学べということを掲げた人だということは覚えている。親日なのは間違いない。クリントンが会談に招いた際に、その日は親戚の結婚式なのでいけないわ、無理っす、と断ったという強気な人でも知られている。
 その在位期間は1981年から2003年だという。就任の1981年にルックイースト政策を提唱、日本の近代化を手本としてマレーシアに取り込もうという政策である。当時マレーシアでは、地元のマレー人を中華系やインド系住民より優遇するブミプトラ政策を導入していた。マレー人の社会的地位が向上し、マレーシア国内の社会的安定が達成されたかに思えたが、マレー人が優先的に採用された公的機関では、怠慢や非効率が横行し、ビジネス界においては過度の個人主義的な傾向が顕著になった。
 また旧宗主国のイギリスとの間でも留学生やビジネスの問題でトラブルが発生し、マハティール政権とイギリスの関係は緊張関係にあった。
 これらの諸事情を背景にして、個人の利益より集団の利益を優先する日本の労働倫理に学び、過度の個人主義や道徳・倫理の荒廃をもたらす西欧的な価値観を修正するべきであるとして、ルックイースト政策が提唱されたのであった。単一民族だから発達してきたような感のある、集団の利益を優先という日本の倫理感覚が、よもや他民族多言語多宗教国家であるマレーシアで参考にされるとはなんともである。個人主義と集団主義、つきつめていくとどちらに軍配が上がるのであろうか。
 こうしたマハティールの提言から、マレーシア国内では日本に対する関心が高まることになり、人勢の育成の一環として日本への派遣留学が急増した。これを好機とみた日本の建設業界のマレーシア進出ラッシュも起きた。やがてこれらの急激な日本企業の進出に対して、マレーシア国内で反発が強まり、時にジレンマを抱えながらも、日本からの経済支援・技術移転などを理由に、ルック・イースト政策は継続された。
 しかし、近年では、経済成長著しい中国や欧米への留学が急増。日本への留学は減少傾向にあり、毎年定員割れが続いている状況らしい。背景には、マレーシアが経済発展していることや経済の低迷が続く日本が留学先としての魅力に乏しいことが理由とされる。
 いまでは、日本の省エネや医学といった日本が世界に先行する分野に絞って留学生を送り出すとして、ルック・イースト政策の転換も示しているらしい。
 マレーシア人は育ちながらにして、英語と中国語をほとんどの人が使えるので、欧米や中国に留学するのはそんなに苦ではないだろう。特に国民の英語力は日本の比ではないので、これから益々英語圏に留学していって発展を続けていく気がする。日本は国内市場でやっていけた時代はもう終焉しており、変化が必要な時期がきている。そんな多言語を操り、経済成長真っ只中のマレーシアで英語や国際感覚を学ぶことは、日本の高校生にはうってつけだと思っている。